ねこバスが飛ぶように走る、風の通り道。
ここでGWを満喫した。
もちろん、ピアノの練習も欠かさない。
大好きなKAWAI RX-5のまろやかな響き。
道端にはやたらと、ひなげしの花が、可愛らしく咲いている。
ひなげしの花言葉は「思いやり」
しかし、思いやり、という言葉にはこの3年間で、この花のような控えめでさりげないイメージがなくなり、図々しく押しつけがましいものになってしまったのではないか。
安部公房の戯曲に「友達」がある。
独身男が一人で住むアパートの部屋に突然押し入って、思いやり(隣人愛)を押し付けてくる8人家族の話。
家族は、善意の塊であるが、その善意がともすれば男の人権を侵害していることには気づかない。あるいは気づいても認めない。これが、ここ3年間の感染対策に似ている。
思いやりというのは、相手の気持ちを想像することだが、その想像が間違っている、あるいは幻想であることもある。しかし、とにかくそうした思いやりが集まって、世間ができている。
この、世間の構成要素である思いやりが、個々の人権を踏み潰し、国の勧告さえも無視することがあった。例えば、国に外すように言われても、周りが着けているからという理由で外せない、善意のマスクがそれである。
「友達」の中で、思いやりの押し売りを拒み、人権を主張し続けた独身男は、8人家族の次女によって毒殺されてしまう。毒殺した次女が言う言葉。
「さからいさえしなければ、私たちなんて、ただの世間にしかすぎなかったのに」
戯曲「友達」は昭和42年(1967)に『文芸』に発表。その元となった短編小説「闖入者」は昭和26年(1951)に『新潮』に発表された。
井藤 好